外務省: [ODA] ODAとは? 2002年度 保健分野NGO研究会
※NGO:非政府組織(Non-Governmental Organizations)
第3部 グローバル・エイズ問題 その諸相と最新動向を追う第2章 南南協力の道を開く:タイ・ブラジルのエイズ政策に学ぶ
第1章では、患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティの当事者の視点から、グローバル・エイズ問題の諸相をみてきた。第2章では、途上国の中でエイズ政策が成功していると言われるタイとブラジルについて、そのエイズ対策の内容と背景、歴史を学ぶことによって、途上国が自らエイズ危機を克服する道と、NGOが果たすべき役割について探る。
1. エイズと向き合うことを学んだ人々:タイのエイズ政策に学ぶ
<はじめに>
シリーズ「南南協力の道を開く」第1回では、「エイズと向き合うことを選んだ人々」と題し、タイのエイズ政策の経緯と現状についてとりあげた。
タイのエイズ対策は「100%コンドーム」に象徴的な予防啓発政策に焦点が当たることが多い。しかし、タイのエイズ政策はそこにとどまるものではない。1991年までの予防啓発一辺倒のエイズ対策の失敗の反省から、患者・感染者へのケアの重視が対策に盛り込まれ、そこにNGO・CSOの参加の糸口が生まれた。また、1996年からは、「Living with AIDS」のポリシーのもとに、PHA(エイズ患者・HIV感染者)とともに生きる地域づくりが、地方政策の大きな柱として取り入れられ、1998年から開始された地方分権化の動きの中でも、このポリシーが生かされている。さらに、最近、発足したばかりの公的保険制度に抗HIV治療が徐々に導入されつつあり、その側面でも国際的な注目を集めている。
こうしたタイのエイズ政策の経緯と現状、直面する問題点などについて、本企画では、「シェア=(元・)国際保健協力市民の会」で長らくタイの保健医療プロジェクトに関わってきた沢田貴志氏、枝木美香氏をリソース・パーソンとしてシンポジウム企画を開催した。
<企画概要>
(テーマ)ワークショップ「エイズと向き合うことを学んだ人々」
(日時)2002年8月31日(土) 午後2時〜5時
(場所)文京シビックセンター5Fシルバーセンター B会議室
(パネリスト)沢田貴志氏((特活)シェア=国際保健協力市民の会)、枝木美香氏((特活)アーユス=仏教国際協力ネットワーク)
(参加人数)49名
(企画構成)
○最初に、参加者を小グループに分け、「(特活)シェア=国際保健協力市民の会」で、タイの農村部におけるエイズ問題の理解のために実施しているワークショップを実施した。このワークショップは、シェアがタイの農村で実施した「PRA」(参加型農村調査法)を、日本人向けにアレンジしたものである。
○ワークショップ終了後、全体会を行い、各グループで話し合われた内容を共有化した。
○次に、タイのエイズ問題および対策について、沢田貴志氏、枝木美香氏の順に報告・講演を行った。
○最後に質疑応答を行った。
「予防啓発」から「ケア」の視点の導入へ
沢田貴志氏
○新規感染者を大幅に減らすことに成功したタイのエイズ政策
まず、タイのHIV/AIDS問題の現状、感染の状況などがどうなっているかについて話したいと思います。タイではこれまでに約23万人がエイズのために命を落としています。現在、HIVに感染して生存している人の数推定67万人とあわせて、これまでにタイ全体で大体90万から100万人くらいが感染をしていると言われています。
1990年頃からタイではセックスワーカーや薬物使用者の間での感染率の上昇が問題になりました。しかしその後すぐに、一般的な人口に流行に移って行きます。バンコクのタイ国軍の新兵の感染率は、1990年頃うなぎのぼりに上がって、最高3%を超えました。コンドームの普及はこの辺からかなりやっていましたが、なかなか下がりませんでした。しかし、91年頃をピークに徐々に下がってきています。それに続いて、妊婦さんの陽性率も2%を超えた。これもなかなか下がらないで、ずっと2%台できていましたが、最近は1.5%ぐらいまで下がってきていいます。献血についても1%近くまでいっていたのが、今下がってきています。
これを見ると、タイは予防という意味でかなり成功してきたと見ることができます。以前は、年間14万人くらいが新しくHIVに感染するのではないかといわれてきました。しかし、現在の推計では年間2万9千人くらい、新しく感染する人を激減させるのに成功しています。ただ、激減するまでの流れには非常に紆余曲折があったわけです。
○エイズにまつわるスティグマが、一般人口への効果的な対策を阻んだ
タイで有名なのは「100%コンドーム政策」です。これは、性産業の現場でコンドームの使用率を限りなく100%に近づけるということです。タイの場合、そうした予防政策のことばかりが強調されています。もちろん、タイでは90年ごろから予防について積極的に政策が展開され、性産業に従事している女性たちの陽性率は91-2年から下がり始めたわけです。しかし、妊婦さんの陽性率はその後も増え続けていたんですね。そこで、タイでは、単に「予防のためにコンドームをつけましょう」「エイズはこんなふうにしてうつる」というキャンペーンだけでは限界があるということが91年からいわれてきました。
当初は、HIVは薬物を注射している人や性産業に従事している人の間で感染するというイメージが非常に強かった。たしかに、それは統計的には事実であり、実際にセックス・ワーカーに対するプログラムとか、薬物使用者に対するプログラムが盛んに行われました。しかし、そうこうしているうちに、あっという間に、一般の人口の中にHIVが入ってくるわけです。どこにでもいる農民や労働者が出稼ぎに行って、感染をして帰ってきて、自分たちのコミュニティの中で妻に感染させる、農村で恋人同士で感染する、という事態が起き始めた。ところが、もともとHIVについてセックスワークや薬物使用というイメージが強く打ち出されてしまっていた。それで、HIVは特別な行動をしたために感染するんだというイメージが強く伝わってしま� ��たんですね。そのため、農村部では、エイズは自分たちの問題ではないというイメージが浸透してしまったんです。
エイズというのは特別悪いことをするとうつるもの、というイメージが先行していたために、都会に出稼ぎに来た人たちが、自分たちがHIVに感染するリスクについてお互いに話し合う状況が作れなかった。また、村に帰って、自分が感染しているかも知れない、ということを相談することもできなかった。タイの場合、村では末端まで保健所があって、ヘルスワーカーがいて、ヘルスボランティアという主婦が、村で健康教育をやっているわけです。しかし、エイズについてあまりにネガティブなイメージが定着しているために、そういうヘルスワーカーやボランティアに、「町に行ってこんなことがあって、自分は感染したかも知れない、どうしよう」なんて言えない。だから、そのイメージを変えていかなければ、タイの国民全体に� ��発のメッセージを届けることはできない、と言われるようになりました。
○トップダウンの保健医療システムがエイズ対策を妨げた
タイの医療制度というのはASEAN諸国の中では最も整っていると言っていいと思います。農村部でもほとんどの地域に保健センターがあり多くの人は病気の時にここに行きます。保健センターで手に負えない病気であれば郡病院、郡病院で難しければ県病院という縦の流れができていて、それは全部公立のサービスです。予算に限りがあるので高い薬は提供できないですが、原則としては、お金がないから医療にかかれないということはないシステムになっています。
地域の保健センターを支えるスタッフは、主に看護婦さんです。しかし看護婦さん一人では数千人の農民をカバーできませんから、村のボランティアが選ばれて、ボランティアたちが自分たちの周囲の住民の健康教育とか、初期手当などに協力しています。私たちは93年、このヘルス・ボランティアたちにインタビューをしました。「村でエイズについて予防活動をした方がいいんじゃないか」と聞いてみると、ボランティアたちは異口同音に「この村では必要ありません。」と言います。その理由は、「この村では売春宿に働きに行ったり、女性を買いに行くような悪い人はいませんし、薬物を使うような人もいません。だから予防など必要ありません」というわけです。「では、どこでやればいいんでしょうか」と聞くと、「隣の村� �はそういう人がいるようです」という。
要するに、このボランティアは、リスクがあることは薄々感じていても、それを言えない状況がある。さっき述べた、トップダウンの保健医療システムの中で、「村はこうあるべきだ」という教育が徹底しています。タバコの喫煙率を何パーセント以下に下げましょうとか、トイレのある家を90%にしましょう、というようなことを、政府が推進して、保健ボランティアの人たちがそれを村の中で一生懸命取り組んでいくわけです。
たしかに、他の感染症については、トップダウンの、建前で進んでいくプログラムが効果を持つこともあると思います。しかし、エイズに関しては、村の中の現実から出発しないと、誰も本当のことが言えない。そうすると、本当に必要な予防の対策ができなくなってしまう。これは、私たちも気がついたことですが、実は、タイ政府の公衆保健省の幹部たちも感じていたんですね。そこで、保健セクターに携わる人々の意識を変えていって、自分たち村人一人ひとりに感染のリスクがあるんだという認識になるようにしたい、考えたわけです。
○「エイズは誰もが感染する身近な病気」という認識を広げる
それでタイ政府は1992年、エイズ対策の見直しをし、5カ年計画をつくりました。その5カ年計画の中に、それまでの予防一辺倒に代えて、二つの柱を入れました。一つは感染者に対するケアを改善しようということ、もう一つは感染者の人権を尊重しようということです。
この二つを入れた理由、それは、これまで、感染経路のことや、エイズがどれだけ怖い病気かということを刷り込んでいく中で、患者・感染者に対する差別が起きてしまった。さらに、エイズについて刷り込まれたネガティブなイメージによって、村人たちはエイズのことを自分たちの問題として考えられないようにさせられている。だから、逆に、感染者と共生をしていく、住民が感染者を受け入れていくように、プログラムを変えていかなければならないということになったわけです。そして、それを末端で担うのは誰かということで、ヘルスボランティアにその役割をやってもらうことになってきました。そこで、私たちは公衆保健省の出先機関から相談を受けて、一緒にヘルスボランティアのためのエイズトレーニングをするこ� ��になったのです。
私たちが最初にやったことは、エイズは「悪いことをした人の病気」、「自分に関係のある病気ではない」と捉えられているので、エイズをもっと身近に引きつけて考えられるようにしていかなければならない、ということでした。いろんなNGOが同じようなことを開始したんですが、私たちは次のような演劇を上演することにしました。主人公は村に住んでいる若者。彼は町に出稼ぎに行くのですが、そこで嫌なことがあって、お酒をたくさん飲んで夜遊びをして、感染してしまう。村に帰ってきて、誰にも相談できず、ついにお母さんに打ち明ける。この若者役には保健所のお役人さん、お母さん役には日本人の看護婦さんがなったんですが、この二人の会話を村人が聞く。こうした演劇によって、村人たちに、「エイズというのは自� ��の隣に住んでいる若者がまた、自分の友達が感染してもおかしくない病気なんだ」ということを感じ取ってもらう。そうするうちに、エイズが特別な人たちの病気だという考えは薄れてきますし、その中で、自分たちが感染してもおかしくないんだな、そういうリスクを負っていることを村の中で話してもかまわないんだな、ということがわかってくるわけです。
他にやったのは、PRA(参加型農村調査法:Participatry Rural Appraisal)というワークショップです。実際の演習を通じて、みんな感染のリスクがあるじゃないか、ということをわかってもらう。こうしたかたちで、ヘルスボランティアの人たちに、エイズが村の中に実際にある問題、身近な問題だということを実感として感じてもらうと、それまで建前しか言わなかったヘルスボランティアたちも、村人たちの実情を聞き、感染のリスクがあっても非難するのでなく受け止めてやっていくという姿勢に変わっていきました。
○感染者を地域が受け入れる
こうして、農村部でも次第に、自分たちが持っているリスクを、当たり前のこととして語ってもいいと考え、行動を実際に変えていこうという動きが出てきました。そして95-6年には妊婦さんの陽性率も下がり始めていきます。しかし、感染の予防に成功したタイでも、実際に発病する人の数というのは、たとえ感染する人の数が減っても、その後5年・10年はまだ伸びてしまうわけです。エイズは発病するまでに5年10年かかりますから、予防に成功した段階においても、発病する人の数は増え続けました。95年以降は2万人以上が発病する状態が続いています。ここ数年、少し下がり始めたようですけれども、報告されない人数も入れると年間2万人からそれほどへってはいないのではないでしょうか。
こうした状況ですから、発病して長期間療養していく人を地域がどう受け止めていくかが重要になってきます。病院の数には限りがありますから、病院に入ってもらえばいいやというわけには行きません。地域社会が受け入れてケアをしていくしかないわけです。そのため、96年ぐらいから、予防だけではなくて、コミュニティ・ケアを推進しようということが盛んに言われるようになりました。
ただ、残念なことですが、初めのうちは、病院の医師たちも、「エイズは治らない病気だから、政府が薬を無料で提供するには優先順位が低いのではないか」という意識が強くありました。医師や病院がそんな態度であれば、感染者に対する差別はとてもなくなりません。そこで、公衆衛生省が、病院のサービスをよくするために強い指導を行うということがありました。それで95年には、すべての公立病院でカウンセラーを育成する研修が始まりましたし、抗レトロウイルス薬のような非常に高い薬を使わなくても、日和見感染の治療はしていけるのではないか、というような試みも行われるようになりました。下痢を止める薬草なども安価な薬剤として利用されました。
限られた予算の中で、どうやって工夫していったらいいかということが話し合われるようになってきました。少なくとも日和見感染をきちんと治療しようという方向性がでてきました。タイの場合、発病するエイズ患者の中でいちばん多い日和見感染は結核ですが、結核の薬については、国が無料で提供するプログラムがあります。また、カリニ肺炎も、薬が安いのでこれも対応できます。下痢についても、長く続くようなら薬草を使ってケアできる。ということで、日和見感染の治療のレベルが少しずつ上がっていきました。しかし、抗レトロウィルス薬に関しては、96年の当時には、高くてもう全然手が出せない。薬が飲めるのは、都市に住んでいるごく一部の裕福な人だけだった、という状況がありました。その中では、AZT(ジド� �ジン:最も早く開発された抗レトロウィルス薬の一つで、核酸系逆転写酵素阻害剤)の価格が低下する目処が出てきましたので、AZTを母子感染予防に無料で使っていきましょうというプログラムが始まりつつありました。また、96年当時には、薬草とか理学療法、マッサージとかを使ってサービスを良くしていくということが病院の中で行われ、地域でも、エイズボランティアが、脳卒中で寝たきりになった人と同じように、エイズの患者さんもケアをしていこうというような動きも少しずつ始まりました。こうして、現場で少しずつケアの改善が進んでいたわけです。
Living with AIDSの地域づくり
枝木美香氏
○「Living with AIDS」のタイに於ける意味
歯科用印象は何ですか
タイのエイズの感染が爆発的に広がり始めたのは、89年くらいからです。つまり、タイではかなり早いうちから、国家としてエイズ問題に取り組むようになったわけです。その後、96-97年ごろがもう一つの転換期となり、エイズ対策の方向性が変わりました。その当時からのお話をしようと思います。
私は96年から98年にかけて、シェア((特活)シェア=国際保健協力市民の会)のタイ事務所の駐在員として働いていました。その関係で、私の経験したことを中心にお話し(カット・し)します。
まず、「Living with AIDS」という言葉は、いろんな意味合いのある言葉で、受け止め方も色々あると思うんですが、タイではエイズ患者・HIV感染者を受け入れる地域をつくろうという意味で、96年にこのスローガンが打ち出されました。これを打ち出したのは当時のバンハーン首相(バンハーン・シーラパアーチャー。在任期間1995年7月〜1996年11月)政権(元・成立)です。この人は就任後一年くらいで交代しちゃったんですが、その人が在職中に、エイズ患者へのケアとエイズ予防に地域と家族の役割が重要になるということを打ち出したんです。
この「Living with AIDS」が、97年からの国家エイズ対策5カ年計画に反映されることになり、地域と家族が感染者を受け入れようということで、エイズ対策としてスローガンのように打ち出されるようになりました。エイズ・キャンペーンをやる時にも、各地域でNGO、及び国・行政機関がこぞって「Living with AIDS」と言うようになったんです。その背景には、感染者数が増えてきたこと、病院にも全員を受け入れる余裕がなくなってきたこと、感染者が出ない地域はないんじゃないかというぐらいタイの中で感染者・患者が広がったことがあると思います。
○統合的なHIV対策の推進と草の根のエンパワーメント
そのことで変化したことがいくつかあります。一つは、各県にエイズ委員会が設置されたこと。もちろん、各県・各郡には公衆保健省(Ministry of Public Health)の管轄している公衆保健局というのがあるんですが、そこだけがエイズという問題に取り組むのではなくて、例えば、教育省、労働局、社会福祉局、その他NGOとか、いろいろなセクターの関係者が集まってエイズの委員会を各県につくり、より包括的な取り組みを行うべきだ、ということでエイズ委員会の設置が推奨されました。
また、地域でいかに患者・感染者を受け入れていくかということで、家庭介護のトレーニングなどの推進が行われました。シェアでは時を同じくして家庭介護のトレーニングを始めてたんですが、国や県の医療セクターなどが、より下級の医療セクターや、地域で活動するNGOに対してトレーニングを行うようになり、ホームケアも推奨されるようになりました。その時出た5カ年計画にも、個人・家族・地域が、エイズの予防やエイズによる問題の解決に力を入れなければならない、草の根の人々が力を付けなければならない、ということが、エイズ対策の中でうたわれ、政府・企業・NGO・関係諸機関・国際機関が一緒になって協力して問題に取り組むべきだということが、「連携した発展」(Cooperation Development)という概念として明記されています。
○感染者グループがつくられていく
その中で、NGOがどのように活動してきたか。1つは、患者・感染者グループの形成が各地域で行われるようになってきました。それは、感染者がそれだけ増えてきて、いろんな地域にいるという中で、感染者たち自身が力をつけていかなくては問題は解決されないということから、各地で感染者自身がグループを作っていった、また、シェアのようなNGOが介在してグループを作っていった、というのが特徴だと思います。
シェアの活動を例にあげてみます。ラオス・カンボジア国境の近くに、アムラチャラン県という、人口30万ぐらいの小さな県があります。ここの県立病院を使って、シェアは感染者グループの形成に努めました。この病院は、当時はベット数200床ありました。今は大きくなって500床くらいあります。もちろん抗HIV薬は、まだ高価格で備えられていなかったので、主に日和見感染症が中心だったのですが、母子感染予防のためにAZTを配布し、粉ミルクを無料で提供するプログラムも行われていました。そこで、粉ミルクをもらいに来る母親たちを集めて感染者グループを95年に始めました。
この感染者グループの主な参加者は、妊婦検診でHIV陽性だとわかった女性たちでした。健康や出産についての学習をしたり、薬草の使い方を学んだり、ピア・カウンセリングでお互いの悩みを語り合う中から感染者グループの活動を促進していく、感染者グループ委員会をつくっていったわけです。そこから出発して、感染者どうしで家庭看護を行うことから、国際会議に出たり、政策提言活動などを行うところまで、彼・彼女たちは力をつけています。社会福祉制度の学習とかは、医療機関だけではできないので、社会福祉局の方に来ていただくとか、アレンジをシェアが行うといった具合に、色んなセクターが協力し合ってこの活動をしてきています。
なぜこうした活動が可能になっているのか。まず、病院は母子感染の予防のために粉ミルクとかAZTの配布を行い、また、医療面でのケアとサポートを行っています。NGOである「シェア」は、感染者グループの組織化に協力したり、他のセクターとの橋渡しを行ったり、精神面のカウンセリングやケアを行ったり、グループ運営のための資金の調達などに動いています。感染者グループは、ピア・カウンセリング、お互いの悩みを相談しあったり、お互いに家庭を訪問しあったり、同じ県の他の地域で感染者グループを形成していく場合、グループの形成は当事者どうしの語りあいによって他の地域の当事者が声をあげていくことにつながりますので、それについての協力、その他提言活動を行っています。
アムラチャラン県立病院で活動している感染者たちは、他の地域の感染者グループに対して、薬草を使った薬の作り方を説明したりします。彼ら・彼女ら自身が、シェアのボランティアとして、他の地域でのエイズ予防啓発活動に取り組んでもいます。自分が感染者であることが、他の村の方たちに伝わったりすることもあるわけですが、そうしたことも克服して、今に至っているというところです。
○市民社会との提携の重要性を国も認める
ということで、96年ぐらいから、地域の強化・家族の強化が進められ、これが97年から2001年にかけての国家エイズ戦略計画(National AIDS Strategy Plan)に反映され、エイズに対する包括的な取り組みがすすめられています。そのためには、人的資源・能力の向上を伴わなければいけない。実際に、ケアや予防の力をつける、問題解決能力をつけるということで、色々な地域で、コミュニティをベースにしてトレーニングが行われていきました。
タイ政府が出している報告書に「HIV/AIDSに対する強力な国家的対応の教訓」(Lesson for Strong National Response to HIV/AIDS)というものがあります。この中で総括されているのは、国家がHIV/AIDSへの取り組みから何を学んだか、ということです。そこには、政府だけがHIV/AIDSに対する取り組みを行っても不十分であり、社会の各種セクターや多くの社会的資源が一緒になって、それぞれの力を積極的に発揮しながら取り組まない限りは、エイズ問題は解決しないということが教訓だ、と書かれていました。市民社会がエイズに取り組んでいかないといけないということが、タイでは非常に強く打ち出されたわけです。
「Living with AIDS」というのは、日本ではなにかきれい事のように聞こえますし、もちろん、エイズ委員会がどれだけ機能しているかについては、県や地域で違いがあります。NGOがどれだけ感染者グループと行政機関をつなぐ役割を果たしているか、そういう仲介役が存在するか、感染者の抱える問題はどれだけ深刻か、これらの問題には状況の差があり、全ての地域で同じようにうまくいっているわけではありません。しかし、これらの取り組みが様々な地域で行われるようになったので、感染者グループ自身もかなり力をつけてきています。実際、感染者グループによる行政機関に対する提言なども盛んに行われてきています。
○タイに於ける抗エイズ薬のアクセス政策
提言活動の例として挙げたいのが、抗HIV薬のことです。タイでも抗HIV薬が非常に高く、一般の人にまでなかなか行き渡っていません。しかし、NGOの働きかけや患者・感染者グループの働きかけによって、抗HIV薬のうち、核酸系逆転写酵素阻害剤(NRTI)の一部に関しては、価格がかなり下がってきているんですね。そこで、それなら新しくできた保険スキームに抗HIV薬を入れてもらうことはできないだろうか、という要求がありました。タイでは、新しい公的保険スキームとして、30バーツ政策というのがとられることになりました。これは、2001年4月から試験的に開始され、10月から全県で採用されるようになった新しい保険政策で、一回の診療に30バーツ払えば治療を受けられるというものです。それで、2001年の12月1日、感染者グ� �ープが、この30バーツ政策に抗HIV薬を導入せよ、と要求して、デモを起こしました。その結果、公衆保健省は、だったら2002年の4月から入れましょう、と約束したんですね。感染者グループの力は、そこまで大きくなっています。それは、全ての感染者に薬を何らかの形で渡していこうということで、次の新しい国家政策に反映されつつあります。
この治療薬に関する現状をお話しますと、4月から導入すると言われていましたが、まだ現実にはなっていません。まだ、保険スキームの中には抗HIV薬は取り入れられていないと報告されています。安い薬が生産されるようになったとはいえ、薬の生産量が十分でなかったり、薬をきちんと使える医療者がいないなどの問題があります。特に、地方の、例えば郡単位の病院に行くと、それだけの能力を持った医療者が不足しているなど、色々な問題があるために、すべての人々に薬が行き渡るまでにはまだ至っていません。
しかし、アムラチャラン県でも、2002年の6月に訪問した時には、全然薬が来ていないと言われていたのが、最近シェアのスタッフが訪問したところでは、アムラチャラン県で安い薬を使える人数が増えそうです。それまでは7人だったのですが、35人にまで増えたという話もあります。時間はかかっていますが、抗HIV薬が地方まで行き渡りつつある過程ではないかなと思います。
感染者グループ、当事者が声をあげたこと、それを支える環境・地域ができつつあることによって、ここまで来れたのではないかと思っています。このきっかけとなったのが、96〜97年のエイズ政策の転換だったと思います。
<質疑応答:治療薬にアクセスできる人はどう選んでいるのか>
(質問)国内でつくっている薬の生産量が少ないということがあり、薬を受け取ることの出来る定員が7人から35人に増えたと聞きましたが、薬が飲めれば助かる、飲めなければ助からないという分かれ目になるから厳しいと思いますが、その決定機構について教えてください。
枝木さん:本来、治療薬はもっと出回って、感染者自身が自分で購入するなりできていけばいいと思います。県として、もともと、治験をやっていました。治験のためのリサーチグループはもともとあり、それを拡大するという方向性も追求しているようです。基準としては、CD4がどれくらいあるかといったことですね。その人の状況によって、県の機関(元・期間)が地理的な分布とかを踏まえて選んでいると思います。
沢田さん:その基準については、地方自治体によって政策が違っています。北タイの一部では、県の中に委員会をつくって、そこには医療者側と感染者側の両方(元・療法)からメンバーが入って合同の審査会をやります。そして、必要性の高さ、免疫がどれくらい落ちているか、社会的にどれだけ活動できる状況にあるか、などの面で基準をつけていって、スコアの高い人から順番に取っていくという県もあります。
2.世界の最先端を行くブラジルのエイズ政策
〜市民の参加が導いた成功〜
<はじめに>
1997年、ブラジルは途上国で初めて、HIVに感染した全ての国民に無料で先進国並みのエイズ治療の供給を導入した。現在、途上国で十分なエイズ治療を受けている人々の半分が、ブラジルに住んでいる人々である。
エイズ政策に於けるブラジルの先進性は、治療にとどまるものではない。エイズ政策の決定に関する患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティの参加の度合い、社会的なサポート、予防啓発教育など、多くの点でブラジルの政策は「世界の最先端を行く」ものであると高く評価されている。
この国のエイズ政策を変えたのは、この国で最初にエイズ禍を被ったゲイ・コミュニティをはじめとする、市民社会のコミットメントだった。保健分野NGO研究会では、2002年10月26日、企画「世界の最先端を行くブラジルのエイズ政策」を開催し、ブラジルのエイズ政策の現状と有効性について大西真由美氏(茨城県立医療大学)に、また、ブラジルの国家と市民社会がいかにエイズに向き合い、ブラジルのエイズ政策の内容を豊かにしていったかについてCRI(チルドレンズ・リソース・インターナショナル)の小貫大輔氏に話を伺った。
<企画概要>
(テーマ)世界の最先端を行くブラジルのエイズ政策〜市民の参加が導いた成功〜
(日時)2002年10月26日(土)午後7時〜9時30分
(場所)文京シビックセンター5F中小企業振興センター研修室AB
(参加人数)23名
(企画構成)
○最初に、小貫大輔氏がファシリテーターとなって、ブラジルを知ってもらうための簡単な「自己紹介ゲーム」を参加者全員で行った。
○次に、大西真由美氏・小貫大輔氏の順で報告を行った。
○その後、司会の林達雄氏のファシリテートにより、会場からの質問を取りながら討論を深めた。
ブラジルの保健医療システムの中のAIDSプログラムの位置づけ:政策決定−実施−インパクト:トップダウンとボトムアップの包括的アプローチがもたらしたもの〜
大西真由美氏
○在日ブラジル人コミュニティと祖国をつなぐ
私が、ブラジルのことに関わるようになったきっかけについてまず話します。ラテンアメリカに国際協力事業団の仕事で関わるようになって、その後1990年代始めに日本に帰ってきました。当時は日本に在日外国人の人たちがどんどん増えてくる時期で、私はスペイン語で医療通訳のボランティアをするなどして、在日外国人の人たちのことに関わるようになってきました。
そんな中で、在日のラテンアメリカの人たちの中で、HIVに感染する人たちが出てきたので、私は日本における大きな外国人のコミュニティである、ラテンアメリカ、特にブラジルの人たちのエイズの問題に関わるようになりました。
それはちょうど、ブラジルのエイズ政策が「世界のモデル」と言われはじめてきているときでもありました。そこには、日本の中に活かしていくべき要素もあるでしょう。また、日本で感染・発病したブラジル人たちが、このまま日本に住み続けるのか、ブラジルに帰って治療を続けるのかという選択をするとき、日本でも、母国のエイズ対策や治療に関する情報を得られるようにすることが大事だと考えました。それで私は2000年の9月に、ブラジルのエイズ対策を見てきました。
この時点で、すでに優れたシステムができあがっていました。今はより発展した部分はありますが、基本線は変わっていません。今日の話は2年前のことをベースにしたものです。
○ブラジルにおけるエイズ:スケールと歴史
何メディケイドがすべてを取る
ブラジルはとても大きな国だということを、皆さんご存知だと思います。日本の約22倍。そこに人口が1億7000万ちょっといます。保健指標は、たとえばアフリカの国にみたいに悪いわけじゃないし、GNPもすごく低いわけじゃない。でも、その大きな国土の中に大きな経済格差があって、南部のサンパウロやリオデジャネイロは先進国のような感じですし、アマゾンの方に行くと、ぜんぜん違う文化圏、生活形態があります。
ブラジルで患者・感染者として登録されている方たちの累積数は、2001年9月までで22万二千人ちょっと。約人口の0.1%ぐらいになります。そのうちの半分ぐらいの人たちはすでに亡くなっています。これは登録されている方たちの数なので、推計すると人口の約0.6%、60万人ぐらいだろうといわれています。
日本では新規のHIV感染者の数は毎年増えている状況にあると思いますが、ブラジルは、新規で登録される方の数は毎年減ってきています。1999年には約2万人だった新規の感染者の数が、2000年には1万5000人に減っている。これは、予防のキャンペーンが大きくやられていたり、治療が進んでいるなどの要因があると思います。
ブラジルの感染者の感染経路についてなのですが、もともとは、ブラジルの中産階級の男性同性愛者の間で感染が広まったのですが、最近では異性愛者に感染が広まってきたということがあります。90年代初頭には、感染者の性別比は男3:女1ぐらいだったのが、最近では2:1、1:1に近いような状態になっており、特に若者、若い世代の15歳〜19歳に注目すると1:1になってきて、異性愛者間で感染が広がってきています。
母子感染については、99年の8月末までで4630人。そのうちの40%の方がもう亡くなっています。今示しているこういう数字は、ブラジルでは患者をID番号で登録して、その人がどんな治療を受け、どんな検査を受けているかを管理するSINANというシステムがあります。このシステムに基づく統計で出されたものです。このシステムは私が2年前に行ったときにはありました。このシステムの技術的側面は、ブラジルの技術者たちと、米国のジョンズ・ホプキンス大学の協力でできたものです。
最近のブラジルの感染者の動向は、3つの言葉で表せます。まず貧困化(pauperization)、つまり中産階級の人から貧困層に移ってきたということ、次に女性化(feminization)つまり男性から女性に移ってきたということ、そして地方化(interiorization)、つまりもともと都市部、サンパウロ、リオデジャネイロなどで感染が広がったわけですが、最近では農村、地方に感染が広がってきたということです。例えば、1980年代の感染者の人たちの学歴っていうのを見てみますと、ほぼ100%が大卒または高卒の人たちであったのが、99年では例えば、41%が中卒以下の学歴であったということで、こういうところからも貧困層に感染が広がっていることがわかると思います。
○ブラジルにおけるエイズの医療システム
保健サービスの話にうつります。ブラジルには、エイズが広がる前から州立病院や市町村レベルの病院など、保健医療インフラがそれなりに整っていたということがあります。
現在、HIVの治療やケアを外来で専門的に受けられる施設が全国に145ヶ所あります。ブラジルには27〜28の州がありますが、これらの施設は全国に145ヶ所散らばっています。ただ、これも、もともと医療施設が多くあったところを中心に広がってますので、やはり南部に集中しているという現状があります。そこで、医師・看護職・ソーシャルワーカーや心理職など、いろんな人たちが、ケアに関わっています。
ブラジルで、HIVの治療薬が無料提供されているのは皆さんご存知だと思います。外来で治療を受けることができるシステムを作る、整備することによって、入院するより安く治療ができるわけです。また、外来治療を続けていく中で、具合が悪くなるとか、HIV感染者が何らかの理由でちょっとした手術や外科的な処置が必要だということが出てきた場合に入院できるデイ・ホスピタルが全国にやはり66ヶ所あります。そこでは、具合が悪くなったときに集中的に治療を受けたり、休んだり、処置を受けたりできます。
最近、感染者が低学歴や貧困層の人たちに移ってくるなかで、抗HIV薬をちゃんと飲めれば入院の必要はないけれども、抗HIV薬は時間の管理などの面で、飲むのが非常に難しいことがあり、飲み忘れなどもあって、治療が徹底されないことがよくあります。そういう人たちのところに、保健ワーカーが家庭訪問して、ちゃんと治療が行われているかどうかサポートするところがあります。日本でいうと、保健センターとか、訪問看護ステーションのHIV版にあたる、そういう施設が全国に50ヶ所あります。
ブラジルが最初に治療薬の国内生産を始めたのは93年。AZT(ジドブジン)の製造を始めました。96年には多剤併用療法(HAART)のために抗HIV薬の無料提供を開始します。なぜこのような活動をするか、その根拠になっているのがブラジル憲法で、国民の権利として健康が保障されるべきであり、それを保障するのは国家の義務である、とうたわれています。この憲法と、市民社会の、とくにNGOや患者・感染者のグループが大きな声で主張したということで、この無料提供が実現するようになりました。
現在では、全国424ヶ所の保健所施設で抗HIV薬にアクセスできるようになっています。これも現在のところ南部、特にそのリオデジャネイロ、サンパウロ州に集中しています。北部や東北部の州では、州に1ヶ所しかセンターがないというところもあります。その辺が今後のブラジルの課題だと思います。
○エイズ治療薬の国産化と無料配布のインパクト
現在ブラジル国内では、15種類の薬を無料提供しており、そのうち7種類について自国内生産しています。
2000年、ブラジルは約3億ドル以上のお金をHIVの薬の無料提供のために使いました。これはブラジルの国家保健予算の約3%を占めており、その半分以上が多剤併用療法の為に使われています。この予算の36%は、エファビレンツ(抗HIV薬の一つ。非核酸系逆転写酵素阻害剤)とネルフィナビル(抗HIV薬の一つ、プロテアーゼ阻害剤)の輸入のために割かれている。これらの薬がもっと安く入手できるようになれば、1人当たりにかかる治療費はずっと安くなるでしょう。現在、抗HIV薬の無料提供を受けているのは2002年の6月時点で11万3000人です。国内生産が進んだ結果、1997年には1人当たりの年間の治療費が4,860ドルだったのですが、2001年には2,530ドルまで下がりました。治療薬の無料提供自体のインパクトとしては、サンパウロ市のHIV感染者� ��中で、死亡者数が54%減少したり、また、97年から99年の間に延べ数で14万6000人の入院治療を減らすことができた。また別のデータでは、97年から2002年までの5年間で、35万8000人の入院を回避することができた。治療薬の無料提供によって、外来治療を中心となり、入院治療による医療費負担の増大を押さえることができたわけです。
では、治療薬の管理はどのようになっているのでしょうか。ブラジルではSICLOMという、コンピュータでオンライン化された薬剤管理システムがあり、治療薬を提供している424の保健医療施設のうち70%がSICLOMによってオンライン化されています。一方、患者はIDカードによって登録されており、検査のデータや、処方されている薬の種類が、一目で分かるようになっています。ブラジルでは、治療のガイドラインが定期的にリニューアルされますが、それに照らして不適切な治療や投薬が行われている場合には、このシステムがそれをはじき出してくれます。実際、99年1月から2000年の1月までの間に40,009件の処方箋が出され、そのうち36,401件、全体の91%が適切、残りの9%が不適切というような判断が下される。このシステムは、ジョンズ� ��ホプキンス大学などの技術協力で生まれました。
○「連帯」がブラジルのキーワード
ブラジルは、2000年の南ア・ダーバンでの国際エイズ会議のときにとても脚光を浴びました。そのとき、アフリカのポルトガル語圏諸国をはじめ、途上国に技術協力をしていく方向性を示しました。現在は、ラテンアメリカではキューバ・エルサルバドル・ペルー、アフリカではポルトガル語圏のアンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ・サントメ=プリンシペ、英語圏のナミビアに対して技術協力を始めています。また、アンゴラとモザンビークについては、ブラジルによる技術協力を日本政府が経済的な面で支援することも少しずつ始まっています。
私は2年前にブラジルのエイズ対策を見に行きたいと思ったんですが、実際にブラジルにアクセスがあったわけではありません。でも、次にお話になる小貫さんを通じて、いろんなNGOの方を紹介してもらい、いろいろ訪ねてきたんですけれども、どこにいっても、どこの誰とも分からない私を、とても温かく迎えてくれる。公立病院に行っても、NGOのグループに行っても、ブラジル人の特質といいますか、明るい気質で、ぱーっと受け入れてくれるっていう雰囲気がどこにいってもありました。嫌な思いをすることは1度もなかったですね。
もちろん、システムがあることも、ここまでできたこともすばらしいんですが、やっぱりそういう雰囲気、一人一人の人たちが、感染者の人もそこに関わっている人たちも一人一人の気持ちっていうのが、非常につながってるといいますか、小貫さんがよく「連帯」っていう言葉を使われると思うんですが、一緒に力合わせてやっている雰囲気を非常に強く感じました。
ブラジルのエイズ政策と市民社会
小貫大輔氏
○ブラジルの「治療薬無償供与」政策の画期性
今回お話するブラジルのエイズ政策は、エイズの治療薬をどんな人にも無料で提供する、という世界でもきわだって先進的な内容のものです。
年間五億ドルという費用をかけてこの政策を実施することで、ブラジルは世界で最もエイズ治療の経験が豊富な国になってきています。エイズ治療はカウンセリングをベースに行なわれるわけで、薬を飲むはずの時間にはテレビを見てるから飲みわすれちゃう、とか、うちは冷蔵庫がないからどうしよう、っていう、そういう患者の悩みにカウンセリングベースの治療を成功させていかないといけない。そうしないと、薬を出したら出したで国民がそれを飲まなくなってしまって、耐性ウィルスが生まれたり、政策そのものがうまくいかなくなっちゃう。だから、国家レベルの関心として、無料で出した薬を患者がきちんと飲むことをサポートすること、つまりカウンセリングベースの治療ができるようになること、それが大切なことと� ��えられているわけです。
当初、先進国からは、貧しい国の人にそんなこと言ってもうまくいく訳ない、耐性ウィルスを生むことになって世界にとって危険な政策じゃないか、とブラジルへの批判が上がったぐらいです。ところが、今までの所を見ると、ヨーロッパと変わらないレベルで患者がちゃんと服薬している。それが可能だったのは、やはり医療者がカウンセリングの能力を身につけたからだと思います。医者にとってカウンセリングなんて学校でも習わないもんで、それはブラジルも同じです。しかし、エイズ医療の現場ではそういう能力が要求される。そのことで国全体のレベルで医学が変わってきている、という感じがしています。
ブラジルがエイズ治療薬の無料配布を政策として実現してきた背景には、1988年制定の憲法で「ヘルスは国民の権利であり、国家の義務である」と謳っていることがあります。キューバ並みの思想ですね。貧しい国で、貧しい人に無料の医療サービスを保証している国なんて、今時めったにありません。アフリカの諸国では新自由主義の時代にそういう政策がどんどんつぶされていった。しかし、ブラジルはそういう政策を追求している。PHC(プライマリ・ヘルス・ケア)思想の実践としては、ブラジルの政策は1980年代後半という遅れたスタートを切った国なんですが、他の国でそういう政策が潰されていった後に今でもがんばっている。ますますがんばっている。エイズ治療薬の無料提供も、そういう背景があっての政策なんです。
でも、これを実践するのはとても難しい。すごいお金がかかるし、国民に一種の不公平感が生まれてもしょうがない面がある。エイズというのはある特定の人々に最初に広まるわけですが、たいてい、そういう人たちは国家の中で差別されていることが多いわけです。「あんな奴らのかかる病気のために何で税金を使うんだ」という話にならないとも限らない。国民が支持しなければ、国がいかにはりきっていてもできないはずの政策ですね。
それで皆さんに考えて欲しいのです。何でブラジルではエイズ治療薬の無料提供が国民に支持されているのか、国や政治家にとって、エイズ治療に投資することに政治的メリットがあったのはなぜか、ということです。
○ブラジル・エイズ政策のダイナミックさ
垂直増やすことができます重量ベルト
エイズ治療薬の無料提供がブラジルの医療にカウンセリング能力の向上という新しい課題をもたらした、と言いました。もう一つ、この政策がブラジルにもたらした新しい局面について話したいと思います。
この政策は金がかかります。そのために、初期の段階から、国内でジェネリック薬を生産しよう、という発想が生まれました。エイズ薬は、多国籍企業の儲けのために極めて高い値段をつけて売られています。だから、治療薬がみつかってからも、それが買えなくてたくさんの人が死んでいる。それが今日の世界の状況です。そんな中で、ブラジル政府は「患者の生存権を守るために、薬は自分たちの国で作ります」と宣言して、ジェネリック薬を作り始めたわけです。製薬会社は知的所有権を主張しますが、ブラジル政府は人命の方が大切だと訴えます。善と悪の闘いの、OK牧場の決闘のような物語が始まったわけです。
ブラジルは、実際には法律を破ったことは一度もありません。自国内で生産している薬は、知的所有権の世界化に対応した特許法が制定される前の薬ばかりです。それ以降の薬は、法律違反になるから作れないわけです。それでも、「特許を破ってでも作るぞ」と、ブラジル政府は厳しく交渉し、製薬会社に薬の値段をどんどん下げさせてきています。
そこで怒ったのが米国政府です。米国政府は、WTOに嘆願してブラジルのジェネリック薬生産をやめさせようとします。しかし、ブラジルのエイズ政策の正当性、というよりは正義・正論ですね、は世界中に広く認知されていて、ブラジルは「正義の味方」のようになっていましたから、世界のエイズに取り組む多くのネットワークから米国に批判が集中するわけです。その結果、アメリカは嘆願を取り下げざるを得なくなるんですね。
それだけ積極的な政策をしていたブラジルですが、2000年の11月に、お金がなくなってしまいました。治療を希望する患者が思ったより多くて、金がなくなってしまった。財務省が保健省に、こっちもお金がないから出せないよ、という。話しはもうちょっと複雑で、実は、財務大臣と保健大臣は、次の大統領選挙の候補に向けたライバルだった。そんな時、どうしたらいいと思いますか。保健省のエイズ局は、ブラジル中のNGOにEメールを流したんです。このままいくと、財務大臣のせいでエイズ政策がストップするぞ、助けてくれ、という内容でした。それで全国的に抗議運動が広がり、財務省はあっさりと引き下がって補正予算を組んだんです。ラジルのエイズ政策って、ダイナミックで面白いでしょう。
ブラジル国家としてエイズ対策を司るのは、保健省のエイズ局で、省ビルのワンフロア全部がエイズ局です。そこは2階にあって、ちょうど階段で上れます。他の局はみんなエレベーターで行く。エレベーターを使う人たちはみんなスーツなんですが、階段を上る人たちはいろんな服装をしているんですね。そこで働いている人たちの多くが、NGOや地方自治体から引き抜かれてきた人たちで、ゲイ、HIV感染者、女性の比率が非常に高いんです。今は別のビルに引っ越したんですが。保健省の中で、そのフロアの雰囲気は不思議な魅力のあるところでした。
ここまで話してくると、なんだかやけにかっこいい政府のように聞こえますね。しかし、ただ単に政府がかっこいい、というのではなくて、そういうスタイルが受ける、かっこいいと思われる、という国内状況があるわけです。それはエイズをめぐる闘いの中で、そういうイメージを市民が勝ち取ってきた歴史によるものなんです。そのことを少し話したいと思います。
○軍事政権の抑圧に抗して生まれる市民社会の二つの流れ
1986年まで、ブラジルは軍事政権でした。1964年から86年まで、アメリカに作られた軍事政権があったわけです。アメリカはなぜ軍事政権を作らなければならなかったか。それは、60年代の南米で、住民・市民運動がすごく活発になり、とてもリベラルな社会が生まれつつあったからです。パウロ・フレイレという人がいます。彼は住民の中に入っていって、民衆教育の運動をどんどん活発化させました。そんな南米の雰囲気の中で、共産党と関係した政権がいくつも生まれました。アメリカは、そういう政権をCIAの陰謀によって転覆させて、軍事政権を成立させたわけです。それが70年代の南米の状況でした。これが成立してしまうと、市民運動は全部潰されて、抑圧の時代が続くことになります。
ブラジルの状況がかわり始めるのは、1970年代後半からでした。軍事政権は1974年から開放政策を取って規制を緩めてきたのですが、とうとう1979年には恩赦法を制定して海外亡命者の帰国を許します。そうすると、7,000人という活動家が続々と帰国を始め、60年代のあの雰囲気が再びぐーっと盛り上がってきます。ブラジルは今日、世界でも最も市民社会が活発な国の一つと言われますが、80年代のそういう雰囲気の中でそういう社会が生まれたわけです。80年代に生まれた市民社会には、実は二つの異なった流れがあるのですが、今からそれについて説明しようと思います。
一つの流れは、亡命帰国者を始め、海外の市民社会の影響を受け、NGOと呼ばれる市民社会組織を作っていった人たちの流れです。エイズや環境、女性問題などに取り組んだ、いわゆるインテリ層の活動です。もう一つの流れは、ごく普通の人たち、国外に逃亡もしなかったし、インテリでもない、そういう人たちが自分たちの生活を守るためにつくってきた「住民組織」の流れです。そちらの動きも、80年代の開放感の中で活発になってくる。ファベーラ(スラム)などで、本当に貧しい人たちが、水道を引いたり保育園を作ったりする運動の中から、とてもよい住民活動が生まれてくる。これらの人たちが軍事政権と闘って、市民としての権利をかちとっていく。シンプルでカリスマのいない、その辺のおじちゃん・おばちゃんのやる� �民運動でした。NGOの流れは、もう少し派手な、お金持ちでインテリの人たちの運動です。この二つの流れが、80年代にはそれほど交わることなく進行していくんですね。
○エイズに関する最初のNGOは亡命帰国者から
私が一つのドラマだと思うのは、80年代に続々と帰国をはじめた亡命者たちの中に、最初のHIV感染者たちがいたということです。たとえば、ベッチーニョ(Betinho。本名ヘルベルト・ジョゼ・デ・ソウザ Herbert Jose de Souza)は、ブラジルの市民運動においてパウロ・フレイレと並び称される人ですが、たまたま自分が血友病患者であったということがあって、様々な社会運動を展開する中の一つとして、エイズのNGOを作っていくわけです。彼は自分が血友病であるということに関しては全く運動の中に持ち込まないで、完全にエイズのNGOとしてそれを作った。当時は、亡命帰国者でエイズを持ち帰った人たちはゲイの人たちが多かったので、彼はその人たちと連携して、現在に至るまでブラジルのエイズをリードするNGOを作っていく。
もちろん、ブラジルの問題はエイズだけではありません。環境問題やストリートチルドレン、いろいろな深刻な問題があって、そういったテーマに取り組むNGOが生まれていきます。80年代というのは、国際社会の方でも、第三世界で草の根で活動するNGOに直接支援する国際協力の形態が盛んになった頃で、ヨーロッパ諸国からブラジルのNGOにもたくさんの資金が流れました。その中でも、80年代にいい役割を果たしたのはオランダの援助だったと思います。オランダは、ブラジルのNGOがネットワークを作っていくことに対してお金を出した。それがすごく良い効果をもたらすわけですね。92年にリオ・デ・ジャネイロで環境サミットが開かれ、歴史的に意味のある市民フォーラムが開かれますが、当時のブラジルは環境市民運動のメッカみ� ��いになっていたわけです。
80年代、NGOというのは基本的に「反政府」でした。先ほど述べた住民運動の方は、自分たちが生きる権利を獲得することがベースにあったので、反政府性はあまり強くなかったのですが、NGOの方は、より派手な、反政府的な動きを示したわけです。しかし、90年代になると、ベッチーニョ自身が次のように言うようになった。「ミクロからマクロへ、プライベートからパブリックへ、抵抗から提案へ、アンチからプロへ」。その頃から実際に空気が変わっていきます。80年代のブラジルでは、政府が例えば差別を助長するようなセンスの悪いエイズキャンペーンをやり、NGOがそれをガンガン批判する、という構造でした。それが90年代になると、政府とNGOが協力してキャンペーンを作るという雰囲気になっていきます。
95年にはカルドーゾという新しい大統領が就任します。彼は中央集権的だった軍事政権の政策を改め、新自由主義政策をとって分権化・規制緩和をどんどん進めた大統領として知られています。もう一つ、あまり話題にされないことですが、社会自由主義と呼ばれる政策も推進しようとしました。教育や保健などの社会政策についても、そういうことは政府がやってもどうせうまく行かないのだから、市民社会にやってもらおう、という政策です。
政府とNGOのそういう関係が生まれつつあった中で迎えたのが、96年バンクーバーの国際エイズ会議での多剤併用療法に関する発表でした。エイズに効果的な治療法がみつかったというニュースです。エイズで「死ななくてよくなった」。しかもブラジルでは、憲法で「ヘルスは国民の権利であり、国家の義務である」と保障している。治療法がみつかって死ななくてよくなったんだから、それは国民の権利としてその治療を受けられなければいけない、そういう運動が起こって、それがあっという間に法廷闘争に持ち込まれるわけです。裁判所も裁判所で、あっという間に判決を出す。「1週間以内にエイズ治療薬を提供しなければ、サンパウロ州の保健局長を逮捕する」という判決です。それで局長は、もういい、ということで薬を出し� ��ゃう。その後がまたブラジル政界の面白いところですが、80年代の評判の良くなかった元大統領が上院議員になっていて、「エイズ治療薬は無料にすべし」という法案を出し、これが可決される。96年にこの法律が出て、先ほどから述べているあのブラジルのエイズ政策が生まれるわけです。
○大きな星が一つ落ちると、無数の小さな星が生まれる
先ほど、80年代の市民社会運動には二つの流れがあると説明しました。ヨーロッパからの帰国者たちのNGOは、どちらかというと、カリスマが牛耳る運動、という側面もあった。テレビにも出るし、有名人がすごいネームバリューでやっているNGOが80年代のNGOだったわけです。ところが、80年代の後半から90年代の前半にかけて、こういった人たちが死んでいく。大きな星が落ちていくわけです。
こういうNGOの運動は、面白い、聞かせる、見せる運動だったので、こうした人たちが死んでいくのは本当にショックなわけです。これからどうなってしまうんだろう、このせっかくの盛り上がりはしぼんでしまうんだろうか、と思わせたものです。ところが、ここが人間の歴史のおもしろさだと思うんですが、そういう星が一つ落ちると、今度は小さな星が、20とか30とか、出てくるんですね。今まで大きな星が輝いていたために見えていなかった星たちが、いっぱい見えてくる。その人たちがどういうことをするかっていうと、テレビに出るわけではない。むしろ、地域の住民組合や学校に気軽に行って、気軽に話をしてくれる人たちが出てくるわけです。
80年代のエイズのNGOは、必ずしも感染者だけで作っていたわけではありませんでした。むしろ、ベッチーニョの思想などから言えば、感染している、していないに関わらず参加できる、というものが多かった。しかし、90年代には、俺たちは感染者なんだ、ということを基盤にしたNGOが生まれてきました。実際、感染者には、一緒にいる、ということについての非常に高いニーズがある。例えば、同じ病気を持つもの同士、治療方法なんかについて情報交換をする。心の悩みについて打ち明けたり、生活を助け合ったり、なんてことができる。そういうことが、たいがいは病院の待合室で同じ感染者たちが出会い、話をすることから始まりました。ここでは何だから、といって自宅で会うようになる。その集まりがどんどん大きくなってい って、自宅で集まるんじゃなくてどっかに場所が必要になる。そんなときに誰かが家を一軒寄付してくれたりする。患者さんが亡くなると、遺族からグループの運営に使ってほしいと寄付がくる、そんな風にして活動が大きくなっていったわけです。
そういうセルフ・ヘルプのグループのメンバーたちが、保健所や学校なんかに呼ばれて話しをしてくれと言われれば、気軽に出かけていって、話をしてくる。90年代には、そういうことがたくさんおこっていきました。そういうことが始まると、エイズのイメージが急に身近なものになっていくのでした。今までは、エイズといえば、テレビに出ているあのすごい人たちの話だったのが、今度はすごい普通のおじさんが来て話をしてくれたよ、という話になってくるわけです。私に言わせれば、これは大きな転換点だった。つまり、先ほどから話しているブラジルの市民社会の二つの流れ、NGOの流れと住民組織の流れ、その二つがここへ来て重なるようになってくるんです。
○ブラジルのエイズ政策を支える市民社会の基盤:住民運動
治療薬については、一つ、気をつけなければならないことがあります。1990年代中頃から、ブラジルはエイズの発病コントロールの面で薬に頼る国になっていったという問題があります。その前のブラジルは、薬とか何とかよりも、幸せ、愛、連帯が大切だ、という雰囲気が強い国でした。エイズにはたしかに治療法がない。だけど、幸福であるかぎりなかなか発病しないんだよ、死なないんだよ、というような運動がありました。政府とは「闘い」ながらも、自らの中には「平和」をもっとも大切としたときがあった。それが、政府が「味方」となって治療薬が保障されると、今度はこのエイズ運動がかえって「平和」を失ったような気がします。生きる権利の追求という「闘争」としての 側面を帯びるようになってくる。運動の性質が変わってくるんですね。
最後に一言、自己紹介のようなことをすれば、私は、二つの市民社会の流れの中で、住民運動の中で仕事をしてきた人間です。サンパウロの「モンチ・アズール」というグループに身を置いて、その中からエイズの仕事に取り組みました。この住民組織の核になったのが、働く女性を支えるネットワークで、保育園なんですね。スラムに電気はすぐに入ります。盗電が簡単なので、電力会社も、少しでも金が取れるように、電気を入れてくるわけです。逆に、水道が入りづらかった。スラムでは、水道は道路に面した家にしかメーターが置けないので、その下にある数十軒の家がまとめて交渉できるところでないと入らなかった。もう一つ、とても重要な公共サービスが保育園でした。都会では、貧しい女性は働かないと生きていけない� ��で、保育園が非常に重要なんです。保育園のないスラムでは、家に鍵をかけて一歳の子どもをおいて働きに出る、兄・姉は学校にも行かせてもらえない。そこで、サンパウロの街では、70年代後半からコミュニティが保育園を組織するようになって、政府と交渉して公的資金を獲得するところまで持っていきました。ブラジルの市民社会の「住民運動」の流れは、保育園が中心に展開されているといって過言でないと思います。ブラジルの保育園の50%は、そういうNPO立の保育園です。NPOの保育園は、小さな子どもの保育から始まって、やがて学童保育、医療、保健サービス、所得創出、職業訓練など、いろんなことに手をつけていきます。ブラジルにはそういう住民組織が無数にあって、いろいろな面白い活動が生まれています。
今まで述べてきたように、80年代に成長した市民社会は、90年代に花開いたように発展・成熟して、今年(2002年)は選挙の年を迎えました。そこで当選した今度のルーラという大統領は、労働者党という、かなり左がかった政党から出た人物でしたが、そういう政党を国民が圧倒的に支持した。第1次投票の日、私はたまたまブラジルにいたのですが、その辺のおじさん・おばさんが、「資本主義の残酷なかたちが許せない」なんて言いながら、ルーラに投票していくわけです。そんな社会が生まれていたんだな、と感慨深かったです。あの80年代、90年代を経て、そういう社会になっていたんですね、21世紀初頭のブラジルは。
たしかに、今、それをやらないことには、今の時代には貧しい国は坂を転げ落ちていくだけです。グローバリゼーションの進む世界で、日本は「二番手につく国」としてアメリカについていこうとしていますが、アメリカ追従ということをやったらダメになる、と言うのがブラジルの考え方です。実際、アルゼンチンではIMFに言われたとおりにやっていたら、ダメになってしまいました。あのようになるか、それともルーラを大統領として選ぶか。その選択を強いられた。国民がみんなで後者の選択をすることが明らかになっていく中で、ブラジルのビジネス界も、やがて雪崩をうつようにルーラ支持を打ち出していく。しかし、2003年1月に実際に彼の政権ができたら、世界の資本主義体制は厳しくブラジルを攻撃するでしょう。その攻� �に負けて、ブラジルがもし失敗したら、世界は希望のないところになってしまうと思います。アメリカについていくしかない、ということになる。それは世界にとって、マイナスの「学び」だと思う。そうならないように、私はブラジルをサポートしていきたいと思っているのです。3月にはブラジルに引っ越して向こうで仕事をするのですが、新しいブラジルのために「駈け参ずる」という感じです。
3.世界のモデル・ブラジルのエイズ政策
ブラジル保健省エイズ対策担当者に聞く
<はじめに>
前項で見たように、ブラジルのエイズ政策は途上国の中で極めて先駆的な内容を持つものである。
ブラジルは抗レトロウィルス薬の無料配布を行い、患者・感染者の治療・ケアに重点を置くことにより、患者・感染者の社会的な位置づけを確保し、その将来への希望を与えることに成功した。このことは、人々の自発的なカウンセリングおよび検査(VCT)へのインセンティブを向上させることにつながり、また、予防啓発活動への患者・感染者の参加を促すことによって、それをより効果的なものにする機能を果たした。
また、これらのエイズ対策は、80年代後半から、政府の政策決定への市民社会の大規模な参画によって実現したものである。すなわちブラジルのエイズ対策は、ブラジルの市民社会の、エイズ対策への全体的な動員を伴って形成されてきたものであり、この政策形成プロセスは、同時にエイズ問題へのブラジル社会の全面的な覚醒を意味するものであったのである。
この点について、保健分野NGO研究会では、2002年11月27日、日本エイズ学会に参加するため来日したブラジル保健省国家HIV/AIDS管理プログラムの責任者、マルコ・アントーニオ・デ・アビラ・ヴィトーリア医学博士をお招きし、ブラジルのエイズ対策の形成と現状、今後の課題について聞いた。
<企画概要>
(テーマ)世界のモデル・ブラジルのエイズ政策:マルコ・ヴィトーリア医学博士に聞く
(日時)2002年11月27日 午後7時〜9時
(場所)国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟110号室
(参加人数)18名
(企画構成)
○最初に、マルコ・ヴィトーリア医学博士よりスピーチが行われた。
○その後、質疑応答を行った。
ブラジルのエイズ管理政策
我々はモデルたりうるか
マルコ・ヴィトーリア氏
○はじめに
今日は、ブラジルのエイズ対策についてお話をしたいと思います。ブラジルのエイズ対策は、とくにHIV/AIDS治療に重きを置くという方針をとってきました。その成功の歴史により、私たちの方法論は国内外で評価されており、ブラジルのエイズ対策は途上国のモデルだという声もあります。なぜブラジルが対策に成功してきたのか分析していきたいと思います。
ブラジルは人口1億7千万人が5000以上の自治体に暮らす大きな民主主義連邦国家です。
ブラジルのGNPや平均余命は、世界の中で中位に属しています。ブラジルは経済的・社会的・文化的に極めて大きな多様性を持つ国であり、エイズに関しても、私たちは80年代初頭から、様々な経路による感染に直面してきました。
2002年3月までに、ブラジル保健省は国内で総計23万7千におよぶエイズの事例と11万のエイズによる死を把握しています。ブラジルにおいては、男性の同性間性行為による感染や、性産業従事者、麻薬使用者などの、エイズに対して脆弱なコミュニティの感染を大きく減らしてきました。しかし、最近では、小さな町で感染事例が報告されたり、異性愛者間の感染、女性や貧困層の感染などが増大するなどしており、エイズの疫学的動向の変化が顕著に見られます。
ブラジルは1996年より、定期的に更新される国家ガイドラインに従って、無料で抗レトロウィルス薬による治療を提供するプログラムを実施してきました。2002年末現在で、およそ12万人の感染者がこのプログラムの恩恵を受けています。1992年、世界銀行は2000年までに120万人がHIVに感染するだろうとの予測をしました。しかしこの予測は、現在、60万人に減っています。ブラジルはエイズ対策によって、感染の数を半減させたのです。
ブラジルのエイズ対策はこのように、極めて有効に機能しています。これは、早い段階で政府と市民社会が連携し、多くの社会セクターの動員によってエイズ対策を実現したからです。また、エイズ対策の内容として、予防と治療、および人権の尊重がバランスよく両立されていたことによるものです。
なお、性感染症およびエイズ対策として政府が投入した資金のうち、外部の支援は1割以下で、ほとんどの資金を国内で調達しています。
○ブラジルのエイズ対策はいかなる実績を上げているか
ブラジルでは、エイズに対して脆弱な人口集団におけるHIV/AIDSの罹患率を有意に減少させることに成功しています。ブラジルの性感染症・エイズプログラム STD/AIDS Program により、6万件の新規感染を防ぐことが可能となり、外来治療に要する経費だけを考えても、12億ドルの予算節約を生み出しています。
また、母子感染予防においては、ここ10年間で3700件の新規感染を防ぐことができています。国内で生産されたAZTを、HIV陽性の妊婦に無償供与する制度を、公衆保健制度の中に導入し、96年からは、国内生産された別の抗レトロウィルス薬も導入しています。この投薬政策は、ブラジルの母子感染予防のプログラムの最重要の側面をなしています。
ブラジルでは、1989年以来、エイズ関連の死亡者数を9万以上減少させることに成功しています。これは、主に90年代後半以降の3剤併用療法へのアクセスの拡大によるものですが、日和見感染症に対する化学療法の効果的な実施も大きな効果を上げています。リオ・デ・ジャネイロおよびサンパウロにおいては、1995年から2001年までの間に、エイズによる死者数を7割以上削減することに成功してきました。
一方、ブラジルでは、効果的な行動変容・予防戦略のもとに、性産業従事者および男性と性行為をする男性(MSM)に対してセイファー・セックスのプログラムを、また麻薬使用者には被害軽減(harm reduction)のプログラムを実施した結果、HIVおよび性感染症の感染を有意に減少させることに成功してきました。多剤併用療法を無料で実施している現在においても、コンドームの売上は増大しています。
私たちは、HIVに関連した日和見感染症の発症を6〜8割削減してきました。また、HIVに関する外来サービス、家庭でのケア、デイ・ケアサービスへの需要が増大しています。一方、日和見感染症の発症が減少したにもかかわらず、結核はHIV陽性者の死因の最大要因を占めており、また、C型肝炎やある種の癌の発生が大きな問題になってきています。
私たちは1997年から2001年までの5年間において、35万8千件のエイズに関連する入院を防ぎ、その結果、11億ドルの予算を節約することに成功しています。多剤併用療法の無料導入後、このように入院費用が節約されることによって、経済的・社会的コストが軽減されています。多剤併用療法の無料化は、入院の長期化や複雑な医療の実施などによる患者の肉体的・精神的負担を軽減し、福利を増進する上でも役に立っています。
多剤併用療法への普遍的なアクセスを制度として導入した結果、HIV感染者・AIDS患者の平均余命は、当初はわずかに6カ月であったのが、現在では5年と、大きく伸びています。
歴史的に見ると、ブラジルは1991年から、部分的にAZTの配布を開始していましたが、96年の大統領令により、すべてのHIV感染者が、HIVと闘うために必要な治療を無料で受けられることになりました。この年の末には、すでにプロテアーゼ阻害剤の配布が始まりました。同じ大統領令で、保健省が成人・青少年、児童、妊婦それぞれのHIV治療に関する3つのプロジェクトチームを設置、よりよい治療の方向性について検討を重ねることになりました。2002年初頭までに、約11万5千人の患者が、公衆保健制度の中で抗レトロウィルス薬を受け取っています。これは本年末までに13万人、2004年までに16万人以上の患者を対象とするものになると思われます。
○進む治療のモニタリング
ブラジル政府は、治療の適切なモニタリングを可能にするための管理制度を設立しています。現在、ウィルス量およびCD4の値を検査することのできる検査所のネットワークがあり、ウィルス量測定施設が73、CD4測定施設が65あります。また、HIV検査や必要なケアに関するサービスのネットワークが千以上存在しており、HIVの診断、感染のモニタリング、日和見感染の診断と医療的な観察などを実施しています。もちろん、日和見感染症の治療薬の確保も、州や地方自治体単位で行われています。
ブラジル保健省は、全国474の抗レトロウィルス薬供給施設をコンピューター・ネットワークで結び、国家・州・地方自治体レベルの薬剤在庫や流通の管理と、安全かつ効果的な投薬を保障しています。このシステムはSICLOMと呼ばれます。現在、SICLOMは全国111の抗レトロウィルス薬供給施設を結び、公衆保健制度の中で抗レトロウィルス薬にアクセスしている患者の65%をカバーしています。2002年までに、全ての治療薬供給施設をコンピューターで結ぶことができるように作業を進めています。
○抗レトロウィルス治療の無料化で経費節減を実現
ブラジルでは、抗レトロウィルス療法の無料化以後、当初は多くの予算を費やしましたが、ここ数年では、患者一人当たりにかかるコストは半分以下に下がってきています。その理由は、まず、抗レトロウィルス薬の製造・流通の整備が完了しつつあること、次に、抗レトロウイルス薬を大規模に確保していること、最後に、ブラジル国外の製薬企業との間で進められてきた抗レトロウィルス薬の値下げ交渉が効果的に機能していることです。
現在ブラジルでは、5つの国内企業が抗レトロウィルス薬を製造しています。これらの企業が製造する治療薬はジェネリック薬であり、国内で製造される治療薬の価格は96年と2001年を比較して82%も下がっています。一方、輸入される治療薬は25%の値下がりです。
現在、ブラジル保健省は3つの異なったカテゴリーの抗レトロウィルス薬を15種類配布しています。このうち、国内で製造しているのはAZT、ddI、ddC、3TC、d4T(以上核酸系逆転写酵素阻害剤)、インディナビル(プロテアーゼ阻害剤)、ネビラピン(非核酸系逆転写酵素阻害剤)の7つです。
ブラジル保健省は、エイズ治療薬製造に関する特許の強制実施権の発動を避けるため、外国の製薬企業と、治療薬の値下げ交渉を行ってきました。メルクとの交渉で、インディナビルの価格は65%、エファビレンツの価格は59%下がりました。また、ロシュとの交渉で、ネルフィナビルの価格は40%下がりました。アボットとの交渉で、ロピナビル・リトナビルの調合剤の価格は46%下がりました。ブラジルのHIV治療薬の製造は、国内消費のためだけに使用されています。特許の強制実施は最後の手段であり、今に至るまで使われたことはありません。
1999年には、保健省のエイズ治療薬予算の81%が抗レトロウィルス薬の輸入に使われていましたが、現在は57%にまで減少しています。また、消費される抗レトロウィルス薬の63%が国内で製造されたものです。このことは、ブラジルのエイズ対策の鍵である「ジェネリック薬の製造」が非常に重要なものであったことを示しています。ブラジルで抗レトロウィルス治療を受けている患者・感染者の副作用に関する状況は、西欧や米国の状況と変わりありませんが、ブラジル保健省は、ジェネリックの抗レトロウィルス薬の質・安全性・効果の面に関する評価を行う制度を導入しています。
これらの抗レトロウィルス薬による治療によって費やされている経費は、保健省の予算総額全体の1.6%、ブラジルのGDPの0.05%以下に過ぎません。公衆保健制度による抗レトロウィルス治療の効果について米国の類似の制度と比べると、ブラジルの優位性が明らかになります。ブラジルの公衆保健制度が患者一人当たりにかかる費用は、アメリカの6分の1に過ぎません。その大きな理由が、ジェネリック薬の導入にあります。
現在ブラジルは、途上国のエイズ対策への協力も行っています。一つは、ブラジルで製造された抗レトロウィルス薬を供与しながら、HIVの感染に関する管理の能力向上をめざすもの、もう一つは抗レトロウィルス薬の製造と配布に関する技術移転を行うものです。現在、100万ドルを費やし、10のパイロット・プロジェクトを実施しています。
○ブラジル・エイズ対策の教訓:投薬戦略、市民参画
エイズ対策の成功に関して、教訓を整理してみましょう。一つは、抗レトロウィルス療法を最適な形で実現するためには、投薬アドヒアランス(決められたルールに従って治療薬を摂取すること)を確実に行うための戦略が必要です。ヘルスケアに携わる人々や、患者のグループの中で、投薬アドヒアランスに関する教育・訓練を行うと共に、適切なモニタリングが実施される必要があります。
あらゆるレベルの政策・戦略決定において市民社会の参画を得ることも極めて重要です。ブラジルでは、様々なNGOやその他の民間の機関が、政府と協力してブラジルのHIV感染者・AIDS患者の人権や、健康へのアクセス権など、憲法上の権利を守るために努力しました。特許権と抗レトロウィルス薬の製造をめぐる問題などについても、多くの市民の参画によってブラジルのエイズ対策が効果を持ち得たからこそ、現在の政策が維持されていると言えます。また、エイズでの経験は、ブラジルのその他の保健問題に関する政策形成においても効果を発揮しています。
今後のブラジルのエイズ対策の課題としてあげられるのは、HIV感染に関する診断の能力を向上すること、すべての母子感染の防止を実現すること、CD4およびウィルス量検査のためのネットワークを強化し、かつ地方への分散を進めること、とくに、アプローチの難しい社会的集団において、投薬アドヒアランスや耐性ウィルスの状況に関するモニタリングを促進することです。
○最大の課題:途上国における新規感染の防止
そして最大の課題が、途上国におけるHIV感染の拡大の防止です。様々な努力をすることによって、2010年までに2900万人の新しい感染を防ぐことができる、とWHOは推測しています。一年無駄に過ごせば500万人の感染を、三年無駄に過ごせば、1500万人の新規感染を見過ごすことになります。先進国において、地球規模の貧困と闘う合意形成をしていくことが最も重要です。また、貧困国が、抗レトロウィルス薬およびその他の必須医薬品への普遍的なアクセスの保障を要求する地球規模の連合を作っていくことも重要です。
結論として私が言いたいのは、ブラジルのHIV/AIDS対策は、ブラジル固有の政治的・社会的・経済的状況において成立したものであり、他の途上国に直輸入することができるものではないということです。しかし、私たちの成功の経験は、他の国がこの地球規模の危機に対して、よりバランスのとれた、合理的な対策を実現していく上で重要な原則を含んでいると考えています。それは、エイズを克服しようという、国家による政治的意志の確立、様々な社会セクターによる連携した行動、そしてコミュニティの活動の活性化が、効果的なエイズ対策を実現していく上で極めて重要だということです。
ご静聴ありがとうございました。
4.まとめ
シリーズ「南南協力の道を開く:タイ・ブラジルのエイズ政策に学ぶ」では、途上国の中でエイズ政策に成功したとされるタイ・ブラジル両国のエイズ政策の内容と形成プロセスを見てきた。
ブラジルとタイはいずれも、途上国の中では、地域・村落単位まで医療・保健インフラがある程度整備されており、また、国民の多くが、その所得に関わらず最低限の医療にアクセスできるような公共の医療サービス制度が存在していた。保健医療インフラと、公的な医療保障の存在は、実際のエイズ対策の基盤となる点で重要である。
ただ、両国とも、それがあるだけではエイズ対策は成功しなかった。患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティ、エイズ・サービスNGOなどの市民社会組織が、エイズに関して主体的に動いていくことから、対策が形成されていったのである。
ブラジルとタイの共通点は、政府が果たすべき役割というところにも存在する。ブラジルの場合は、こうした市民社会が政府セクターに浸透し、政策決定のキーになっていくことによって、国家の政治的コミットメントを実現した。タイの場合は、政府が市民社会セクターの運動を疎外するのでなく、その動きを積極的に肯定し、「Living with AIDS」といった一定の方向性を示していくことによって、国家と市民セクターのコラボレーションが機能し、適切なエイズ対策作りが実現した。
ブラジルとタイとでは、エイズ対策のコンポーネントに於ける優先順位の置き方には違いがあった。ブラジルでは、96年から「治療」を重点化した政策が行われ、タイでは、90年代後半から「ケア」を重点化した政策が行われた。しかし、これらはいずれも、患者・感染者の存在を社会に公的に位置づけることをめざすものである。感染者が将来の希望を持つことができる社会であれば、人々の検査へのインセンティブも高まるし、また、感染者が自らの経験を社会に向けて語ることによって、予防への取り組みも充実することになる。
ブラジル・タイは中所得国であり、そこで行われた政策が例えばアフリカの後発開発途上国にそのまま有効であるということにはならない。しかし、患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティなど当事者セクターの重視、エイズ・サービスNGOなどの市民社会セクターの重視、差別・迫害を許さず、HIV/AIDSに関わる市民社会セクターの活動領域を広げる形での国家の政治的コミットメント、さらに患者・感染者を社会の中に適切に位置づける形でのエイズ対策の優先順位付け、といったことに関しては、途上国におけるエイズ対策の一つのモデルとして一定の普遍化ができるように思われる。
一方、保健分野NGOとしては、その地域・その国のエイズ対策の段階や方向性、現時点での有効性をトータルに把握しておくことは、自己の活動を評価し、新たなプロジェクトを形成していくための戦略的思考にとって非常に重要であると考えることができる。そのためにも、ブラジル・タイ・ウガンダなど、途上国におけるエイズ対策の「成功」国の最新動向を把握しておくことは重要なのである。
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